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更新日:2025年11月9日
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静岡県抑留犠牲者慰霊碑(富士市中島)
戦後多くの日本人がソ連軍によりシベリアやモンゴルに連行され、極寒の地で重労働に従事させられ、飢餓もあいまって約5万5千余人の尊い生命が異国の土となりました。
静岡県出身者も2千人近くの人が故郷に帰りたいと願いながら亡くなりました。
シベリア抑留で亡くなった人の遺族や、抑留経験者、多くの県民の資金で2003年11月に慰霊碑が建立されました。慰霊碑は「全世界が丸く収まるように」と直径1メートルの地球儀の形に造られ、土台に「平和の礎」と刻まれています。慰霊碑の前では、毎年11月に慰霊祭が営まれています。
俺だけ帰ってすまない。必ず迎えに来るから
生前、遺骨収集活動に熱心に参加していた望月寅雄氏は満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し、戦後シベリアに抑留され1949年帰国しました。
望月さんは、1991年から始まったシベリア遺骨収集に参加し、「抑留中亡くなった同僚との約束、『必ず迎えに来る』との約束を果たすため」と、亡くなられた2008年までに19回も参加しました。
また、平和のための富士戦争展の実行委員として、富士の語りべの会代表を務めた橋口傑氏と、毎年「満蒙開拓青少年義勇軍」「シベリア遺骨収集」についての展示を行い、多くの市民に戦争の実相を伝える活動に従事したほか、前述の「平和の礎」建立の実行委員長の大役も果たしました。