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更新日:2025年11月9日
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大芝裁縫女学校跡記念碑 (市営水戸島駐車場敷地内)
大芝裁縫女学校はなぜ廃校となったのか
1943(昭和18)年の学園閉鎖を報道する新聞記事によると、「長引く戦争で多くの兵士が農村や工場から戦地へ送られ、それに伴って労働者の不足が目立ってきました。そこで政府は、学生や生徒を勤労奉仕勤労動員で補充したのです」とあります。
閉鎖された各種学校の生徒は、軍事工場へ送り込まれました。
静岡県は、大芝裁縫女学校などをはじめ、県下各地の裁縫女学校などの廃校を決めました。
当時の高等女学校には、限られた有力者の子弟のみ進学していました。残りの大多数の女子にとって、この大芝裁縫女学校は裁縫だけでなく、一般教養として、国語・算数・家事・作法などの教育を受ける場としていて、女性の自覚、社会的地位向上に、大きな役割を果たしていました。
学生は、山梨県身延方面や沼津、賀茂郡からも広く通学していて、大正時代の創立以来、3,000人以上の卒業生を送り出し、郷土に貢献した学校でした。
学校長は学校の存続を願い、地元軍需工場との連携を計画しましたが、県の強い指示で廃校となりました。1944年(昭和19年)6月に繰り上げて卒業式が行われ、6月29日には軍需工場凸版印刷会社へ、女子挺身隊として全員が送り込まれました。
また、校舎は県の日本鋼管清水船ドック工員宿舎へ転用という指示により、解体提供されました。
戦後、1987(昭和62)年に同校卒業生有志により、渡辺彦太郎書による記念碑が同校敷地跡に建立されました。
この大芝裁縫女学校廃校の歴史は、戦争遂行のため、国家総動員法のもと、人(生徒)も、物(校舎)も総動員した一つの事例でもありました。