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更新日:2025年11月9日
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愛宕山平和祈念の碑(富士市室野)
本土決戦防衛陣地(高射砲陣地)づくり
1945(昭和20)年1月、決戦非常措置要綱が示され、一億総特攻、一億総玉砕のかけ声とともに、本土防衛の陣地づくりが本格化しました。
富士地域では、米軍が駿河湾に上陸し、富士川沿いに北上するとの想定のもと、富士川右岸愛宕山に高射砲陣地を構築し、山腹から攻撃する計画が策定されました。
同年4月から、高崎歩兵連隊約1,000人が、旧富士町、旧岩松村、旧富士川町、旧松野村の国民学校や寺院に分宿し、昼夜兼行でシャベルやつるはしなど、手掘りで11か所、最長80メートル余りの地下壕を建設しました。
この軍隊の駐屯で、各国民学校は二部授業になりました。
また軍への協力で、馬の干草の提供、富士川から山頂への砂利運搬、炊事場や風呂の提供、婦人会による歌や踊りの慰問などが行われました。
ところが7月に入ると、米軍上陸は関東鹿島灘方面との予測になり、作業は突然中止され、部隊は茨城県方面へ移動となりました。
1995年(平成7年)に戦後50年を記念し、旧富士川町役場が愛宕山山頂に「平和記念之碑」を建立しました。
愛宕山の地下壕
1986年(昭和61年)、旧富士川町役場が、地下壕の調査を実施しました。その記録が富士市建設総務課に保管されています。
現状は、崩落の危険があり、入口には柵が設置され、中を見ることはできません。