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更新日:2025年11月9日

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目次

 

特高警察による反戦平和・自由の弾圧-富士地域の弾圧事件をみる

富士地域の特高警察による弾圧年表
1931年   満州事変
1937年   日中戦争の全面化
1938年 8月 『東海文学』同人たちの検挙
1941年 12月 アジア・太平洋戦争に拡大
1942年 3月から8月まで 県下での生活綴方教育への弾圧
3月29日 平田秀夫氏ら4人の教師検挙
5月19日 岩田哲郎氏の検挙
8月10日 芦沢清氏ら7人の教師検挙
1945年 2月 反戦の投書をした女性の検挙
8月15日 敗戦(終戦)

 

生活綴方(つづりかた)教育弾圧事件―富士川尋常高等小学校の2人の教師

戦時下で起きた生活綴方教育への弾圧は、1940年(昭和15年)2月の山形県の教師、村山俊太郎氏らの検挙に始まり、東北地方や北海道、東京、茨城、新潟など各地に広がりました。検挙された教師は数百人と言われていますが、全容は未解明のままです。その最後となるのが1942年(昭和17年)の静岡県での12人の教師たちの検挙です。
 1942年3月の「特高月報」に、「静岡県に於ける生活主義教育運動関係者検挙状況」として、次のような報告があります。

 「富士川国民学校訓導平田秀夫外数名の左翼教員によりて、昭和10年4月頃より静岡県綴方教育研究会を組織し機関紙『綴方細胞』を発行して、プロレタリア教育運動を展開しつつありたるを探知し、平田外3名を検挙せり」(概略)

 平田秀夫氏(旧富士川町出身)は静岡師範学校卒業後、教師として由比小学校勤務を経て、1935年(昭和10年)から富士川尋常高等小学校(現富士川第一小学校)に勤めます。綴方教育に意欲的に取り組んだ平田氏は、担任となったクラスの文集「ふじかはの子」を発行しました。

 平田氏は師範学校で同期であった岩田哲郎氏や高木幸奈氏と、同人誌「綴方細胞」を発刊。さらに県内の教師に呼びかけて静岡県綴方教育人連盟を結成します。こうした熱心な教育活動は、戦争が激化する中で大がかりな教育弾圧事件に巻き込まれることになりました。
 1935年、富士川尋常高等小学校に着任した芦沢清氏は、平田氏の2年後輩に当たります。綴方教育に熱心な教師で、1937年度に担任した5年生のクラス文集「富士川堤」には、子どもたちのの綴方と詩が掲載されています。

芦沢清「生活の仕方を勉強する綴り方」

「みんながお互に自分の生活を綴方に書き、さうしてお互に読み合ひ、話し合つて、お互に自分自分の生活をもつとよい生活にまでし上げて行くのだ。いやな事に出合つても、大変なことがあつても、こまることがあつても、それに負けないでつき進んで行く子になつてくれ。こんな子がほんたうに強い子なのだ」

芦沢氏は興津国民学校にいた1942年(昭和17年)8月に、治安維持法違反容疑で検挙されました。
平田氏の検挙は同じ年の3月29日でした。寝込みを襲った特高警察は、本棚や机、押し入ればかりか天井裏から畳を剥がし、縁の下までも家宅捜索した上、平田氏を清水警察署に連行していきました。取り調べで1年拘留され、その後起訴。懲役2年執行猶予3年の判決を受け、学校は退職となりました。
平田先生は1944年11月には赤紙(召集令状)が来て満州へと送られ、翌年8月、敗戦直前に起きたソ連軍の侵攻のなかで戦死しました。幼い子どもたちや妻と再会することも、再び教壇に立つ夢も断たれて、異国の土となりました。33歳でした。

富士の反戦投書事件

1943年半ば頃から、富士地域のあちこちの郵便ポストから反戦平和を訴える手紙が見つかるようになりました。東条英機首相や静岡県知事、愛国婦人会長などの有名な人たちに宛てた手紙です。
 「どうか一日も早くこの戦争をやめてください」「戦争は必ず日本が負けます」「どこの国とも仲よくしていただきたい」「国民の生活がどんなに苦しいのかお分かりにならないのですか」といった、平和を強く希望する内容でした。
 県警から「早く逮捕せよ」と厳命を受けた吉原警察署特高課は、必死で捜査しますが、なかなか被疑者を突き止められませんでした。
 特高は1945年の2月になってようやく、富士町水戸島に娘と住む50代の女性を検挙しました。
 彼女は夫と長男を病気で亡くし、残された次男は、召集され南方に向かう途中、乗っていた輸送船が撃沈され戦死してしまいました。ほかの息子たちも次々と戦死し、日本の無謀な戦争が続くことに疑問を持ったようでした。
 女性は脅迫罪、不敬罪のほか、言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反で送検されました。戦争反対・平和な生活を訴えた一女性の声は、戦時下では「社会・人心を惑乱する」行為として、特高警察に逮捕・弾圧されました。

「特高月報」に掲載された反戦投書(1944年6月)

「日本婦人国防婦人会長水野ます子宛(外、畑俊六陸軍大将、静岡県知事等に宛てたる同種のもの五件)の左記投書発見。
会長様
 日本の国は米英を侮って、はなれ小島へ兵隊や軍属をやってアメリカを空襲しやうと思って、反対に皆殺される。輸送船は次から次と沈められ、其の損害は何程でしょう。
 本国では空襲が有と言って防空訓練をして国民を恐しがらして、女や子供は何の仕事も手につかず、其の上一ばん力になる子供は一枚の赤紙で御めしになって、死で来たか生きてきたかわからないような所へ、かよわいつまや子供をうちすてて行く兵隊のことも御かんがへ下さりませ。
 今アメリカへ行ってどんなに御金持て来、日本人よかったか奴れいに使たと言っても金がなければいたしかたないと思ひます。わきの国を撃滅しやう何んて、其な恐しきことは止めて、どこの国とも仲よくしていただきたいと思ひます。
 陛下のためならと思うけれど、わきの国が平和にしているのに日本でさわがしていたでは、わるくないでしたか。日本はアメリカを空襲しようなんて、そんなおそろしいことをしやうなんて、もし我国へ空襲されたら、こんな小さな国で又々はなれ小島のやうに皆殺にされるかと思うと、いきた心ちはないと思ひます云々。」
〔静岡県〕(犯人捜査中)
 

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