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更新日:2025年11月9日
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お寺の鐘は二度出征~龍泉山東光寺(富士市中里)の金属回収供出の話
須津村役場公文書「回収並供出書類」綴の内容を調べる中で、「金属回収」の国民運動・展開について分かりました。
アジア・太平洋戦争の開始まで、日本は軍需生産重要資源である鉄をアメリカからの輸入で賄っていました。そのアメリカと戦争を始めたことから、鉄不足に陥りました。
金属回収の国民運動が始まる
役場公文書、1941(昭和16)年8月25日付、静岡県の総務・学務・経済・土木・警察の各部長連名で、村長宛てに「第二次官庁・公共団体資源回収実施に関する件通牒」との要綱が出されています。
この要綱には、「過般第一次回収ニ続キ、官庁公共団体、他ニ率先垂範ヲ以テ第二次回収ヲ為サンス」と書かれています。
旧須津村はこの回収に協力。国民学校から、「便所くみ取り口ふた11個60kg、垣鉄棒4本、20kg」の報告書があります。
続けて1942年には、官公庁に次いで、民間金属類特別回収に取り組む文書が作成されました。民間を一般家庭と会社に分け、村長から町内会長・隣組長に対し、回収物件については、廃品回収ではなく、原則現用物件献納を基調に取り組むよう指示しています。
一般家庭供出物件
門扉、門柱、柵、広告板、欄干、手すり、脚立、火鉢、鉄びん、文鎮、灰皿など
隣組まで総動員で回収した結果、旧須津村837世帯、517貫760匁もの金属が集まりました。(富士郡地方事務所集計表による)
お寺の鐘も供出
1942年6月、県学務部社寺兵事係から村長宛てに「寺院、教会等ノ金属特別回収ニ関スル件」という文書が届き、村の寺院9か所、教会1か所に対し、「譲渡申込書」の提出指示がありました。
同年12月、各寺院から、申込書が役場に提出され、中里の東光寺(梵鐘、半鐘、香炉、燭台、鰐口)、中里の福聚院(梵鐘(ぼんしょう)、半鐘、鰐口、鉄柵)と記入があります。
梵鐘代金通知文書(1943年10月8日付)
| 寺院名 | 個数 | 重量 | 梵鐘代金 |
| 東光寺(富士市中里) | 1個 | 738kg | 65,682円 |
| 福聚院(富士市中里) | 1個 | 243kg | 21,627円 |
この文書を追いかけるように、1943(昭和18)年10月21日付、富士地方事務所長から村長宛てに、「大東亜戦争完遂梵鐘国債化報国運動実施ノ件」という文書が届き、該当寺院に指導しました。
1度目の出征は梵鐘現物の供出、2度目は国債購入で軍費調達にと、2度も供出させました。
しかし、この国債は、戦後のインフレで紙くずとなってしまいました。
1945年(昭和20)4月18日付、地方事務所長から村長宛てに、「金属回収ニ関スル功労者顕彰ノ件」という文書で、4月29日表彰式挙行のお知らせがありました。
東光寺は戦後、梵鐘を再建するも、福聚院は再建できていません。
「梵鐘も灯籠もみな召されしか つつしみ深く山門くぐる」(昭和万葉集)