現在位置:トップページ > 市政情報 > 平和推進 > 富士市に残る戦跡や戦争に関連した記録 > 満蒙開拓青少年義勇軍「富士小隊」
ページID:15706
更新日:2025年11月9日
ここから本文です。
目次
満蒙開拓青少年義勇軍「富士小隊」
満蒙とは
満州と内蒙古(現在の中国東北部)のことです。
「五族協和」と「王道楽土」
満州国のスローガン。「五族協和」とは漢、満州、蒙古、朝鮮、日本の5つの民族が仲よく協力してゆくこと、「王道楽土」とは武力を使わず王の徳によって政治が行なわれる平和な土地を言います。
しかし、実際の満州国は日本の操り国家で、日本軍(当時は関東軍と呼んだ)が支配者として権力を握り、5つの民族も平等ではなく、日本人が主人公となり他の民族を差別していました。日本からの移民の開拓地は、実は中国農民の土地をただ同然で買い取ったり、奪い取ったりするものでした。
義勇軍を勧めたのは
義勇軍に応募したのは、多くが小学校高等科を卒業したばかりの少年たちでした。彼らに義勇軍参加の決意をさせた一番の動機づけは、学校の先生の指導・勧誘でした。当時、先生は子どもたちに対し、絶大な影響力を持っていました。
1939(昭和14)年3月に富士郡(現在の富士市、富士宮市)で全国最初の義勇軍の郷土部隊「富士小隊」が生まれました。「富士小隊」の誕生は富士郡教育会の教師たちが国の政策に則し、取り組んだ「成果」でした。それが翌年の静岡県単独の義勇軍中隊(植松中隊)の編成につながり、この方式が全国に広がっていきました。
富士郡教育会による「富士小隊」の編成・送出は、1939年(昭和14年)から1944年(昭和19年)まで6次にも及び、その送出総数は440人と県下最大でした。教育会は大陸開拓の功労団体として国から顕彰されました。
満州に渡った少年たちはやがて開拓団員や兵士になりました。しかし1945年8月にソ連軍が満州に侵攻したことによって多くの犠牲者を出し、シベリアに抑留された人たちもいました。
元吉原小学校の「培本舎」
元吉原小学校には戦時中「培本舎」と呼ばれる日輪兵舎がありました。日輪兵舎とは円形の木造2階建て家屋で、義勇軍の内地訓練場に建てられていました。「培本舎」は1940年(昭和15年)12月に完成し、富士郡下の義勇軍を志願した少年たちの予備訓練に使われました。