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更新日:2025年5月15日
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富士川を行き交う~渡船と舟運
江戸時代、富士川には橋が架けられず、東海道を東西に移動する人々は、船で対岸へ渡りました。
一方、富士川上流の甲斐国(山梨県)との物資運送に船が利用され、富士川は輸送路としても機能しました。
富士川西岸に位置する岩淵は、富士川を東西に結ぶ渡船と、南北に往来する舟運の主な拠点となり、行き交うヒトとモノで賑わいました。
ここでは、富士川の渡船と舟運の歴史について紹介します。
東海道の富士川渡船と岩淵
慶長6年(1601年)に徳川家康が東海道および宿場を整備すると、岩淵村は富士川渡船役を命じられ、渡船業を営みました。流れの早い富士川では転覆なども多く、渡船は危険な仕事でもありました。
また、岩淵村は、町並みが宿場に準ずる形に作られ、吉原宿と蒲原宿の中間にある間宿(あいのしゅく)として賑わいました。間宿では宿泊は禁止ですが、増水などで富士川が渡れない時は、多くの人が休憩できる場となりました。
小休本陣常盤家住宅
岩淵の常盤家は、富士川の渡船名主と岩淵村の村方名主の両方をつとめた家です。
公家や大名などの身分の高い人が休憩する「小休本陣」としての役割もありました。
居室の最奥は、床が一段高くなった「上段の間」で、大名自身などの賓客が利用しました。
安政3年(1856年)以降の早い時期に建てられたと考えられており、国登録有形文化財に登録されています。
富士川渡船場常夜燈
岩淵の河岸(船着場)は、渡船と舟運のどちらの従事者・利用者も通る場で、ここから船に乗り込みました。
この常夜燈は、文政13年(1830年)に再建されたもので、岩淵の渡船従事者と河岸商人、甲州の舟運従事者らによって、船の安全祈願のために建てられました。
岩淵鳥居講
12年に一度の申年に、岩淵の住民たちが、富士山の頂上に鳥居を建てるという行事を、江戸時代から継続しています。
伝承では、富士川渡船に使う木材として、富士山から木を伐り出させてもらう返礼と、渡船の安全祈願を込めて、鳥居を奉納するといわれています。
申年に行うのは、富士山にとって申年が縁起の良い年とされていることに由来します。
現在は、岩淵の八坂神社の氏子が主体となって実施しており、市の無形民俗文化財にも指定されています。
南北を結ぶ物流路・富士川舟運
慶長12年(1607年)、徳川家康は富士川で舟運を行うために、京都の豪商の角倉了以に開削工事を命じます。
富士川舟運の上流は現在の山梨県富士川町にあった、鰍沢・青柳・黒沢を船着場とする甲州三河岸、下流は岩淵河岸で、約71キロの川の道が結ばれました。天和元年(1615年)には清水湊(静岡市)まで連結すると、甲斐から駿河、駿河から江戸という一大水運が開けました。
富士川舟運の主な積み荷は、「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、甲州から年貢米が、駿河からは塩が運搬されました。
富士川を使った水運業は、明治44年(1911年)に鉄道の中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道、江戸を結ぶ交通の大動脈として役割を果たしたのです。
角倉了以紀功碑
角倉了以と子の素庵は、船が通れるように富士川を開削しましたが、それは大変な難工事でした。
この角倉了以の業績を称え後世に伝えるため、元宮内大臣で岩淵に別荘を持つ田中光顕の助言を受けて、この紀功碑が建立されました。
現在、富士川渡船常夜燈と並んで、富士川を見つめるように建っています。
高瀬舟(復元)
現在、富士川ふれあいホール(岩淵855-39)には、富士川舟運に使われた高瀬舟を復元したものが展示されています。
船は親方(船頭)を含む4人体制で、積み荷は米俵換算で32俵(約1.92トン)積むことができました。
船の前方上部には径10センチ程度の穴があいています。これは、下流の岩淵河岸から甲州三河岸に移動する際、「曳き舟」といって3人が綱で船を引っ張りつつ、1人はこの穴に押上竿を通して船を押して川を遡上するのに使われました。
岩淵水門
明治時代になっても富士川を使った舟運は行われていました。
明治22年(1889年)創立の富士運河会社は、岩淵駅(現在のJR富士川駅)から富士川本流まで富士川運河を築き、富士川との接続に岩淵水門を建設しました。堀川側は石積みとレンガ積み、富士川側がコンクリート壁になっています。
全国的にも例が少ない河川舟運に関する近代土木遺産として貴重なものです。