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更新日:2025年5月15日
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目次
紙のまち富士
富士市には数多くの製紙工場があり、煙突が林立する光景は、まさに「紙のまち富士」を象徴しています。最近では工場夜景も見どころとなるほど、全国有数の製紙産業都市となっています。
製紙業が富士市でこれほど発展したのは、富士山の恵みである豊富な水資源や森林資源が主に挙げられます。ここでは、「紙のまち富士」となった歴史をご紹介します。
手漉き和紙と駿河半紙
富士市では、近代産業としての製紙業が発展する以前から、伝統的な手漉き和紙生産が行われてきました。富士市北西部に位置する松野地区では、江戸時代から昭和初期の頃まで、手漉き和紙が住民たちの生業の一つで、農閑期となる冬季の貴重な収入源でした。
手漉き和紙の工程について簡単に説明します。
- 原料となる木(松野では主にミツマタ)の枝を蒸して皮を剥ぐ
- その皮を叩いて不純物を除きつつ繊維をほぐして原料とする
- 水を張った漉き船(水槽)に原料を混ぜ、木枠で紙の形状に漉き上げる
- 漉いた紙を重ねて荷重で脱水し、天日で乾燥させる
江戸時代、松野のほか、富士宮市域を含めた富士川流域は手漉き和紙の生産地で、静岡市域の藁科川や安倍川流域等の生産地も含め、駿河国で生産された和紙は「駿河もの」として江戸で流通し、特に安価で丈夫な半紙は「駿河半紙」と呼ばれて好評を博しました。
しかし、近代以降は、製紙業の機械化・工場化に伴い、松野の伝統的な紙漉きは急速に衰退、消滅していきました。松野の手漉き和紙業は、その後の近代製紙産業とあまり繋がりはありませんが、富士市には確かに紙のまちたる歴史が古くからあったのです。
近代製紙業の歴史
ミツマタ栽培と鈎玄社
明治初頭、吉原の内田平四郎らは愛鷹山麓の内山地区を開墾し、和紙の原料となるミツマタの栽培に着手します。
ミツマタの大量生産が実現すると、明治12年(1879年)に手漉き和紙工場「鈎玄社」が吉原に設立され、ミツマタや竹などを原料に和紙を生産しました。操業僅かで経営不振となり閉鎖してしまいますが、和紙生産において工場で生産することや、薬品を用いた製造などの新しい試みが、その後の富士市における製紙産業の在り方の基礎を築いたといえます。
今泉のガマ
今泉地区には通称「ガマ」と呼ばれる湧水地帯が広がっています。和紙生産には大量の清水が不可欠であることから、明治20年(1887年)頃からこの地に多くの和紙工場が集中して操業しました。その後も明治20年代から30年代にかけて、ガマを中心に、湧水地帯である今泉、原田、比奈などに相次いで和紙工場が設立されました。
富士製紙と洋紙製造の夜明け
明治初頭から富士市内で和紙製紙業が発達していく一方、欧米の生産技術に基づく洋紙製造は、東京や大阪などの都市部で生産体制が確立され、明治20年代になると地方へ進出していきます。
富士製紙もその一つで、明治23年(1890年)富士市域で初めての洋紙製造会社として操業しました。敷地19500坪(約65万平方メートル)の工場建設に、現在の鷹岡地区の入山瀬が選ばれた主な理由として、以下の点が挙げられます。
- 水資源、森林資源の確保
- 交通の利便性
- 労働力の確保
富士製紙は国内で初めて、自前で原料を製造して洋紙を生産する工程をとりました。そのため、原料となる木材を富士山麓の森林から調達しやすいこと。その木材を破砕して原料にする機械の動力として、潤井川の豊富な水流を利用した水力発電ができること。併せて生産過程で使う清水としても利用すること。これら利点が重なったことが一つ目の理由です。
次に、輸送面では、明治22年(1889年)に東海道線が開通し、鈴川駅(現在のJR吉原駅)が設置されることで富士市域の利便性が高まりました。これを前提に、鈴川駅から馬車鉄道を整備して入山瀬まで通すことで輸送路を確保し、工場設備の輸入機械を運び入れたり、製品の出荷に利用したりしました。これが二つ目の理由です。
そして、工場操業のために多くの従業員を必要としましたが、周辺は農村で、明治22年は吉原宿の解体で失業者も多数いたことから、労働力の確保が容易だったことが三つ目の理由です。
こうした条件が重なり、入山瀬が富士市最初の洋紙製造の場となり、富士製紙の操業を皮切りに、洋紙の製造が市内各地で行われるようになりました。