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更新日:2025年5月15日
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富士の茶~富士山・愛鷹山の恵み~
富士市は静岡県内の代表的な茶産地の一つで、年間降水量が2941ミリ、年間平均気温が18.3℃(令和6年)と、一定の降水量があり比較的温暖な気候です。加えて、市域の西部と北部は富士山、東部は愛鷹山の火山灰土が分布しており、茶の生育には適した土地柄です。まさに、活発な火山活動によって生み出された自然環境を巧みに利用してきた一例といえます。
富士の茶業のあけぼの
富士市の茶の生産は、古くは市北部、富士山麓の高冷地にある大淵にヤマチャが自生し、茶の生産が行われていました。大正7年(1918年)当時の記録で、樹齢300年となる茶樹が大淵村の茶園にあったそうです。
市西部の岩本では、当地の文書によると、1670年頃から番茶の製造を行い甲信地方および近郊に販売を行っていました。享保年間(1716年から1735年)には江戸へ販路を広げ、宝暦年間(1748年から1763年)には番茶の出荷が最も盛んになりました。しかし、次第に江戸における茶の需要が落ち込み1800年代前半には岩本の茶園の大部分は荒廃しました。
幕末以降の茶業拡大
岩本の茶は、万延元年(1860年)に初めて海外へ輸出され、好評を博して取引量・価格ともに向上、岩本の茶園は増加します。その後も改良を重ねて横浜港へ出荷するなど、幕末から明治初年にかけて岩本における茶業は成長しました。
大淵の茶は、明治初年までは茶を籠に入れて甲州(山梨県)や相州(神奈川県)地方へ販売していましたが、明治5年(1872年)頃からは、茶を木の箱に詰めて馬の背に積んで横浜へ運搬・出荷しました。また、侠客・清水次郎長は、明治8年(1875年)から明治17年(1884年)にかけて、大淵の原野を開墾し、茶と桑を植えたといわれています。
世界へ!野村一郎と天下一製法
市東部では、富士山南麓および愛鷹山北西麓に位置する内山地域の原野山林において、明治初年に開墾が行われ、茶が栽培されました。
当時、最も率先して茶を栽培し、製茶を進めたのが比奈村の野村一郎でした。この頃の富士地域における製茶技術は未熟で、他の茶産地に遅れをとっていました。この状況を危惧した一郎は、静岡や遠州地方から熟練の茶師を雇い入れ、伝習所を開いて職人の育成に尽力し、製茶技術向上に努めました。
その中でも、遠州の茶師・赤堀玉吉らと開発した独特の手もみ製法による煎茶は、明治9年(1876年)に横浜に出荷した際、イギリス・中国の茶商から絶賛されて、「天下一品茶製所」と書かれた扁額が贈られました。その後、天下一の呼び名で市場で広く宣伝され、海外にまでその名は知られるようになり、天下一製法として日本各地に伝わりました。明治42年(1909年)の文献『製茶論』では、天下一製茶はアメリカに輸出されて、アメリカの貴婦人に愛用されている旨が記述されています。
しかし、現在ではその製法について部分的にしか継承されておらず幻の製法となっており、現在はその製法を研究・検証した茶の再現が試みられています。ちなみに、極上の茶の品名にしばしば「天下一」が使用されるのは、この野村一郎の茶が由来ともいわれています。
上写真:「天下一品茶製所」扁額(個人蔵)