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更新日:2025年5月15日
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目次
古郡三代と雁堤
雁堤とその築堤に関わった古郡家三代を紹介しています。
雁堤
雁堤全景
江戸時代初期は、各地で河川の治水と新田開発が行われた時代であり、富士川も雁堤の築堤によって、左岸(東岸)下流域が新田地帯に開発されました。雁堤の名称は、堤の形状が雁が連なって飛ぶ形に似ていることからついたものであり、その規模は岩本山山裾から松岡水神社に至る全長2.7kmです。
古郡三代の悲願
中里村の古郡孫太夫重高は籠下村(松岡)の開拓のため堤防工事に着手し、元和7年(1621年)岩本上に一番出し、二番出しといわれる突堤を築き、その子重政は、引き続きこの地の新田開発のため、加島代官に任じられ、新田開発のため手腕を発揮しました。さらに重政の死後、その子文衛門重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める広大な遊水池を準備することを着想し、逆L字型の堤防を築造しました。
こうして雁堤は、古郡重高—重政—重年の三代にわたる50年余の歳月と莫大な経費、そして治水の工夫を結集して完成し、以後富士川の氾濫から守られた加島平野は、「加島五千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わったのでした。
瑞林寺
瑞林寺山門
瑞林寺は、富士川治水とその下流域の新田開発に尽力した古郡家ゆかりの黄檗宗寺院です。雁堤を完成させた古郡重年の代に、黄檗三傑のひとりといわれた鉄牛道機によって、延宝2年(1674年)に開山されました。
瑞林寺の伽藍は市指定有形文化財に指定されています。伽藍を構成する本堂、鐘楼、山門は、当地における黄檗宗寺院の姿を知る上できわめて貴重な建造物です。本堂は明治12年の大修理以降、数度の改造を経ているものの、建築主要部は瑞林寺開創当時の部材を残しており、黄檗宗特有の形式をもつ山門もまた、安政大地震以前の建造物であると考えられています。鐘楼は明治15年に建立されました。
また、境内には市指定天然記念物に指定されているヒイラギとモッコクがあります。
瑞林寺の伽藍は市指定有形文化財に指定されています。伽藍を構成する本堂、鐘楼、山門は、当地における黄檗宗寺院の姿を知る上できわめて貴重な建造物です。本堂は明治12年の大修理以降、数度の改造を経ているものの、建築主要部は瑞林寺開創当時の部材を残しており、黄檗宗特有の形式をもつ山門もまた、安政大地震以前の建造物であると考えられています。鐘楼は明治15年に建立されました。
また、境内には市指定天然記念物に指定されているヒイラギとモッコクがあります。
人柱伝説
護所神社内の人柱供養塔
17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいました。夫婦が松岡の代官屋敷の前を通ると、役人に行く手をさえぎられてしまいました。
役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだといいます。
これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3ヶ月後に戻ってきました。夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められました。
夫は、自分が生きている間は地中から鉦を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろうと言い残していましたが、21日間地中から鉦の音が響いていたといいます。
役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだといいます。
これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3ヶ月後に戻ってきました。夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められました。
夫は、自分が生きている間は地中から鉦を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろうと言い残していましたが、21日間地中から鉦の音が響いていたといいます。