恋愛もので、わが国の最も古い小説が竹取物語だといわれています。 皆さんがよく知っている竹取物語は「ある日竹取の翁が、竹の中から1寸余りの少女を授かり、かぐや姫と名付け、美しく成長した。姫は5人の貴公子から求婚されながらも、無理難題をいって断り、時の帝のお召しにも従わず、月の世界に帰っていく。」といった内容だと思います。かぐや姫の伝説には諸説がありますが、富士市に伝わる物語は多少内容が異なっていることはご存知でしたか?では、そのひとつをご紹介しましょう。

かぐや姫

かぐや姫のイラストです  むかしむかし、その昔、京ができる前のお話です。駿河の国、富士郡に姫名郷(現在の富士市比奈?)と呼ばれる里がありました。
 この里は、富士山を真正面に仰ぐふもとにあって、村人たちは朝な夕なにきれいな富士の山を仰ぎ、南に広がる青い海や伊豆の山々を眺めて暮らしていました。
 この姫名の里に子どものいない老夫婦、翁と姥が住んでいました。翁は裏山の竹を取って暮らしていたので、「竹採の翁」とか「作竹の翁」、また近くに秋深くなって出てくる竹が生えていることから「寒竹の翁」とも呼ばれていました。
 そんな翁と姥は、子どもを授けてほしいと祈りながら暮らしていました。


かぐや姫のイラストです  ある日のこと、翁が裏山へ竹を取りに行くと、1本の竹の根元が光っているではありませんか。
「不思議なことがあるもんだ。」
と思いながら竹を切ると、竹の中に1寸(約3センチメートル)ほどの女の子がいました。
「子どもがいない私たちに、神さまが授けてくれた。」
と、喜んだ翁は急いで家に帰り、姥とともに大切に育てました。

かぐや姫のイラストです  女の子はかわいく、美しい娘に成長しました。村人たちは、光り輝くような美しい女の子を「かぐや姫」と呼びました。
 美しい娘が姫名の里にいるといううわさは、国司の耳にも届き、国司も使いを出して結婚を申し込みました。しかし、かぐや姫は国司の求めを断りました。
 あきらめきれない国司は、自らこの姫名の里にやってきて、熱心に求婚したのです。国司の真剣な愛を受けたかぐや姫は、国司と一緒に暮らすことにしました。

楽しい数年を過ごしたある日、かぐや姫は突然国司に、
「今まで暮らしてきましたが、私は富士山の仙女です。富士山に戻らなければなりません。心残りですが、おいとましなければなりません。」
 しかし、願いは許されませんでした。かぐや姫は深く悩み、ある日突然、1つの箱を残して去ってしまいました。
 姫は育ててくれた翁や姥、楽しく暮らした国司との別れがつらく、何度も何度も振り返りながら登っていったのです。



かぐや姫のイラストです  姫との突然の別れに国司は悲しみ、姫の後を追って行きました。
 富士の山頂には大きな池があり、その奥には美しい宮殿がありました。国司は宮殿に向かって
「姫よ。かぐや姫よ。」
と名を呼びました。すると、かぐや姫があらわれました。
姫と再会した国司は、姫を見て驚きました。姫の姿はもはや人間ではなく、天女の姿で、姫のそれまでの容顔とは異なっていたのです。
 国司は悲しみのあまり、姫の残した箱を抱えて、池に身を投げてしまいました。






 いかがでしたか?この話は、明治17年に村々の情勢を報告した「皇国地誌編輯(こうこくちしへんしゅう)」比奈村古跡(ひなむらこせき)の条に記されている物語をもとにしています。
 このほかにも富士市には、白隠禅師(はくいんぜんじ)の「無量寿禅寺草創記(むりょうじゅぜんじそうそうき)」(1718年)の中にも竹取物語が記されています。
 これには、「寺は雲門と名づく、赫夜姫(かぐやひめ)の誕育の跡なり、竹取翁の居所なり」と記して物語は始まります。
 しかし、この物語には、前述の「皇国地誌編輯(こうこくちしへんしゅう)」と大きく異なる部分があります。かぐや姫は天子の求婚を振り切るために、岩窟に隠れ、コノシロ(小魚で、あぶると屍臭を発するといわれるもの)と綿の実を焼いて、姫が死を選んだと思わせました。その後、かぐや姫は富士山頂の岩窟に身を隠すと、いつしか、人々はかぐや姫のことを「浅間の大神として敬い、富士山のご神体であると思うようになりました。
 このように、富士に伝わるかぐや姫伝説は、富士山と深いかかわりをもつ特徴があるようです。
 竹取伝説が伝わる、比奈の竹採公園には、白隠禅師の墓や「竹採姫」と刻まれた石碑が残されています。また、翁と 姥が住んでいたといわれる「竹採屋敷」、かぐや姫が富士山に帰った道とされる「囲いの道」、別れを惜しんで振り返ったとされる「見返し坂」という坂があります。このほか、「籠畑」・「かぐや姫」と呼ばれる地名も残っています。


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