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【広報ふじ令和4年】鎌倉殿 富士山麓ゆかりの地

2022年05月05日掲載

富士山ネットワーク会議 広報研究会 共通紙面
鎌倉殿 富士山麓ゆかりの地

富士山の麓にある4市1町で構成される「富士山ネットワーク会議」。広域で連携し、よりよい住民サービスの提供に努めることを目的に活動しています。今回は現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(NHK)が描く時代の各市町ゆかりの地や伝承を紹介します。富士山麓の史跡などを巡り、激動の時代の片りんにふれてみませんか。
-画像あり-
(画像説明)歌川国芳「源平盛衰記 駿河国富士川合戦」江戸時代(富士山かぐや姫ミュージアム蔵)

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
華やかな源平合戦、誕生する鎌倉幕府、権力を巡る男たち女たちの駆け引きー
源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男 二代執権・北条義時。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。三谷幸喜が贈る予測不能エンターテインメント!
放送予定 2022年1月〜12月(NHK)
-画像あり-
(画像説明)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ロゴ

富士市(FUJI)
富士川の合戦の舞台

富士川の合戦とは、平清盛が頼朝討伐のために平維盛の軍を都から鎌倉へ派遣する際、当時の富士川を挟んで対陣した戦のことです。この戦で平家軍は、夜中に行われた源氏の移動によって起きた水鳥の羽音を敵の来襲であると間違え、戦うことなく西に向かって敗走したと言います。この敗戦は、平家没落の大きなきっかけのひとつとなりました。
水鳥が飛び立った音に驚いた平家軍が敗走した場所である「平家越」と平家方が物見(見張り)をした「物見堂」、頼朝が鎧を脱いで体を洗ったとされる鎧ヶ淵親水公園、13人のうちの1人である和田義盛にちなんだ地名や神社など市内にはゆかりの地が数多くあります。市内各所を巡り、富士川の合戦に思いを馳せてみませんか。
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(画像説明)平家越の石碑(今泉)
(画像説明)物見堂(岩淵)は、市内が一望できる絶景スポット
(画像説明)QRコード 富士市ウェブサイト「鎌倉殿へのはじまり」

富士宮市(FUJINOMIYA)
鎌倉殿が伝えた流鏑馬(やぶさめ)

富士山本宮浅間大社の流鏑馬は、鎌倉殿(鎌倉幕府の長)となった源頼朝が、富士の巻狩を行った際、浅間大社を参拝し、戦への勝利と国の安泰を祈願して奉納したことに始まったとされています。
流鏑馬は、走っている馬の上から弓矢で的を射る日本の伝統的な武芸で、平安時代末期から鎌倉時代に武士を中心に武術訓練として広がりました。
毎年5月5日に行われる富士山本宮浅間大社流鏑馬は、市指定無形民俗文化財となっています。
富士の巻狩にまつわる歴史や史跡を富士宮市公式YouTubeで紹介しています。
-画像あり-
(画像説明)鎌倉殿が伝えた流鏑馬
(画像説明)QRコード 「富士宮と富士の巻狩」動画

御殿場市(GOTEMBA)
御殿場に伝わる富士の巻狩

源頼朝が現在の御殿場市周辺の富士山麓で行った大規模な巻狩は、富士の巻狩と呼ばれています。源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに鎌倉に幕府が開かれたのは、建久3(1192)年。その翌年、富士の巻狩が行われました。市内には、富士の巻狩やその時代にまつわる旧跡や伝承が数多くあり、富士の巻狩と関係があるとされる地名も数多く残っています。
写真は、臨済宗の寺院「東岳院」に明治時代初めに奉納された浮世絵師歌川一雲斎国秀作の「源頼朝猟富士野之図」で、富士の巻狩の様子を描いた迫力ある作品です。
富士の巻狩の紹介や伝承などをまとめたマップを市公式ホームページ内「御殿場デジタル資料館」で紹介していますので、ぜひご覧ください。
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(画像説明)源頼朝猟富士野之図
(画像説明)QRコード 御殿場デジタル資料館

裾野市(SUSONO)
源頼朝が喉を潤した伝承の残る湧水地 頼朝井戸の森

頼朝井戸の森は、国道469号沿い、十里木高原展望台駐車場から東におよそ600メートル進んだ場所に位置します。建久4(1193)年5月、源頼朝が裾野市域を含む富士山麓で行った大規模な巻狩は、自らの武力を示すためのものでした。そのときに、頼朝が喉を潤すために飲んだとされる湧き水の水源を含む森を、『頼朝井戸の森』と呼ぶようになりました。その水のおいしさに感動した頼朝は、朱塗りの盃を沈めて水神様に献じたと伝えられています。昭和42年に市指定天然記念物に指定された自然豊かな森には、四季を通じて様々な野鳥が訪れ、落ち着いたひとときを過ごすことができます。
十里木周辺には、ほかにも頼朝が富士の巻狩のときに本陣を敷いたとされる御本陣や、米とぎ場(弁当場)など富士の巻狩にちなんだ地名が残っています。周辺には遊歩道や登山道もあります。広大な富士山麓の自然にふれながら、散策をお楽しみください。
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(画像説明)頼朝の井戸の石碑
(画像説明)頼朝の井戸

小山町(OYAMA)
藤原光親(ふじわらのみつちか)卿の墓

物語のクライマックス、承久の乱(承久3年)のとき、後鳥羽上皇による北条氏討伐の企てに際し、後鳥羽(ごとば)上皇の側近であった藤原光親卿は、倒幕計画の無謀さを憂い、幾度も意見しましたが聞き入れられず、北条義時追討の文書を書きました。
戦後、後鳥羽上皇方の中心人物として参加した光親卿は、公家の中でも最も重い罪に問われ、甲斐の武田信光により鎌倉護送の途中、加古坂(現在の篭坂(かごさか)峠)において斬首されました。義時の長男である泰時は、その死後に光親卿が上皇をいさめるために執筆した書状を目にし、光親卿を処刑したことをひどく悔やんだと言います。
毎年5月に地元の人々により、慰霊祭が執り行われています。
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(画像説明)藤原光親卿の墓への入口
(画像説明)中央の石碑が光親卿の墓


問合せ/シティプロモーション課 電話 55-2700 ファクス 51-1456 Eメール so-citypro@div.city.fuji.shizuoka.jp

お問い合わせ

シティプロモーション課広報広聴担当(市庁舎8階北側)

電話:0545-55-2700
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