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ある担当者のつぶやき 【12月放送分】第46回~最終回

2023年03月31日掲載

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送について、学生時代は日本史が苦手だった担当者が、大河ドラマの感想をつぶやいたり、物語をより深く楽しむためのポイントを頑張って解説したりします。

最終回 「報いの時」(2022年12月18日放送):更新日3月31日

(画像)最終話のイメージ

 衝撃的なラストに、ドラマ視聴後、しばらく呆然としてしまいました。
 北条義時の死因は毒という噂を聞いていたので、毒キノコにでもあたるのかしら、と予想していましたが、妻と親友に裏切られるとは…。
 そして、「女性はみんなキノコが好き」を義時に吹き込んだのは、あなただったのね、三浦義村。このドラマで一番長いフラグがついに回収されました。
 息子・頼家の死の真相を知った政子でしたが、最後の行動は、義時に対する恨みではなく、鎌倉の闇に捕らわれた義時を救うためでした。義時の最期が、どうか希望を感じられるものであってほしいと願っていましたが、最後の表情が、どこか解放されたような、ほっとした顔をしていて良かった。きっと源頼朝も、よく頑張ったと褒めてくれることでしょう。

ポイント解説

北条義時の最期について

ドラマの義時の死因は、のえ(伊賀の方)に盛られた毒でしたが、史実での義時の死因には、複数の異なった史料が残っています。
義時の死因と考えられる主な記録は、以下の3つです。
①病死(脚気と霍乱):吾妻鏡
②暗殺(側近による刺殺):保暦間記
③毒殺(伊賀の方による暗殺):明月記

①病死
『吾妻鏡』(鎌倉幕府が編さんした歴史書)によると、霍乱(暑気あたり)と脚気で長らくの体調不良により死に至ったと記されています。霍乱とは夏バテのこと。脚気とは、ビタミン不足により起きる病気で、重度になると末梢神経障害や心不全の症状がでるようです。

②暗殺
『保暦間記』(鎌倉時代後半から南北朝時代前期を記した歴史書。作者は不明)には、義時が思いがけず側近に殺害されたと記されています。

③毒殺
『明月記』(鎌倉時代の公家である藤原定家の日記)では、承久の乱で上皇側についた僧侶の尊長が捕らえられたときに、「とにかくさっさと首を刎ねろ。そうでなければ、義時の妻(伊賀の方)が義時に盛った毒を寄越して早く殺せ」と口走ったと記されています。


 これらの史料だけでは義時の死因を確定することはできませんが、当時としては高齢の62歳で亡くなった義時。鎌倉幕府の体制を成立させ、泰時という後継者がいた彼は、きっと人生に満足していたのではないでしょうか。

第四十七回 「ある朝敵、ある演説」(2022年12月11日放送):更新日3月31日

(画像)第47話のイメージ

 義時の「面白い人生でした」の発言、格好良かったですね!思い返せば、伊豆半島の田舎で、「自分はこのまま年貢の米の量を数えている人生が性に合っている」と言っていた義時が、朝廷から名指しで追討命令がでるほど大きな存在になるとは…
 物語初期ののほほんとしていた顔つきも、精悍になりました。人生の一生分を、1年間で表現できる俳優さんのすごさを実感します。
 そして、かの有名な政子の大演説!用意された原稿ではなく、自分の言葉で伝えようとする姿に心打たれました。どれだけ出世して立場や状況が変わっても、素直な性格と他人を思いやる気持ちを無くさない政子は、鎌倉の聖母でありジャンヌ・ダルクのようです。

ポイント解説

後鳥羽上皇は鎌倉を滅ぼすつもりだったの?

 後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じて開始された「承久の乱」。後鳥羽上皇の狙いは、義時個人だったのか、幕府を倒すためだったのかは、現在でも見解が分かれているようです。

 後鳥羽上皇の「義時の追討」の命令は、院宣(上皇からの命令で出される文書)が幕府の有力御家人に、官宣旨(朝廷の最高行政機関から諸国・寺社に出す公文書)が諸国に宛てて出されています。内容には、褒美についての内容もありました。
 この命令を知った義時らは、「義時を討て」という内容を、「後鳥羽上皇が東国を滅ぼそうとしている」と言いかえて武士たちに伝えたと言います。

 資料の内容を見ると、後鳥羽上皇の命令が義時追討であったことは間違いなさそうですが、歴史学者の中では、執権義時の存在無くて鎌倉は成り立たず、義時を討てという命令は鎌倉を討てという命令と同意義、という見解もあるようです。

 中世最大の大乱ともいわれる「承久の乱」。この戦いを機に、朝廷と鎌倉の力関係は大きく変わることとなります。

第四十六回 「将軍になった女」(2022年12月4日放送):更新日3月31日

(画像)第46話のイメージ

 息子を鎌倉殿にしようと画策する実衣。夫を謀反人として殺された過去がありながら、実衣もなかなかに強かな女性です。
 後鳥羽上皇と北条義時の鎌倉の命運をかけた駆け引き。頭が切れる者同士、互いの手の内を理解した上でのやり取りは、見ごたえありましたね。朝廷にお伺いをたてる立場の鎌倉が、朝廷の要求を突っぱねるなんて、当時は神に歯向かうような行為だったのではないでしょうか。
 駆け引きのゴールを決めたのは、北条時房の蹴鞠とは驚きです。実際の蹴鞠は協力プレーなので、勝負に使われたことはないとは思いますが、心躍る展開でした!時房の愛嬌は、朝廷でも有効なのかもしれません。

ポイント解説

阿野時元は、どうして鎌倉殿になれなかったの?

 実衣の息子・阿野時元が鎌倉殿となるため挙兵しますが、謀反人として討伐されてしまいました。実衣の夫と言えば、源頼朝の弟・阿野全成。京から迎え入れた三寅(みとら)も、母方の祖先をたどれば源頼朝の姉妹に繋がるようですが、血筋で言えば時元の方が鎌倉殿としてふさわしいように思えます。

 時元が鎌倉殿になれなかった理由はわかっていませんが、ドラマとは違い、義時は京から将軍を迎えることに賛成しており、源氏による勢力争いの発生を危険視していた、と考えられているようです。当時、一定の階級以上のみが富の分配権を所有していたため、京から位の高い人が将軍に来れば、鎌倉の地位は高くなり、財政基盤も安定するのです。
 その証拠のように、時元と同時期に、源氏の血筋の者が次々と粛清されていると言います。

 また、時元は父・全成が謀反の疑いで殺された後、謀反人の子として謹慎状態だったため、鎌倉殿とするわけにはいかなかったのでは、とも考えられています。

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