ここからサイトの主なメニューです

楽しむ

ここからページの本文です

ある担当者のつぶやき 【11月放送分】第42回~第45回

2023年03月31日掲載

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送について、学生時代は日本史が苦手だった担当者が、大河ドラマの感想をつぶやいたり、物語をより深く楽しむためのポイントを頑張って解説したりします。

第四十五回 「八幡宮の階段」(2022年11月27日放送):更新日3月31日

(画像)第45話のイメージ

 実朝の最期、すべてを受け入れたような微笑みが印象的でしたね。鎌倉殿としての野望を成し遂げることはできませんでしたが、彼の死は北条泰時に大きな影響を与えたようです。自己主張の弱かった泰時が、義時を超え、己が平和な世を創ると宣言しました。泰時、ついに覚醒です!
 泰時の宣言を聞いた時の義時は、どこか嬉しそうでしたね。
 義時が父・時政を討つと決意した際、己の覚悟を見届けろと泰時に言っていたのは、いつか自分が泰時に倒される覚悟をしているからなのでしょうか。鎌倉の闇を一身に引き受けて、鎌倉を去ろうと考えているのだとしたら…、何という自己犠牲でしょう。

ポイント解説

公暁は実朝を呪い殺そうとしていた?

 鎌倉最大の悲劇と言われる、実朝の暗殺事件。この事件の実行犯である公暁は、実朝を呪い殺そうとしていたという説があります。

 鶴岡八幡宮の3代別当が寿命により亡くなると、政子は別の寺で修行中の公暁を4代目別当とするために鎌倉へ呼び寄せます。鶴岡八幡宮は、源頼朝が篤く崇敬した鎌倉幕府の精神的中心ともいえる神社で、別当はそのトップです。
 ところが、別当となった公暁はすぐに一千日の参籠(千日に渡って寺社の堂に籠もり、神仏に祈願すること)を始めます。
 この時点では、親王(皇族の男子)を鎌倉殿に迎える構想は立ち上がっていなかったそうです。

 別当としての公務を一切行わず、参籠する間は髪を剃ることもしない公暁を、周囲の人々は怪しんだと言います。参籠には七日や一百日など様々な期間がありますが、千日といえば約3年。よほどの大きな祈願だと考えられます。
 しかし、一千日の参籠の半ばで、公暁による実朝の暗殺事件が起こり、公暁は討ち取られました。

 歴史学者の中では、公暁は自身が鎌倉殿になるため、一千日の参籠で実朝に呪詛をかけていたが、親王を将軍に向かえるという話が動き出したために実朝暗殺を実行したのではないか、という説があるのです。

第四十四回 「審判の日」(2022年11月20日放送):更新日3月31日

(画像)第44話のイメージ

 幕府を京へ移すという計画を知り、源実朝と北条義時は完全に決裂してしまいました。坂東の国を創ることを目指し、多くの犠牲の上に今の鎌倉があることを知っている義時にとって、朝廷への服従を示す実朝の行為は、鎌倉への裏切りだと感じられたのでしょう。
 鎌倉のために尽力しても、誰も理解してくれないと苛立つ義時の気持ちはわかりますが、原因は実朝との信頼関係を作れなかったことだと思うぞ、義時。
 自分が鎌倉殿となった経緯を知り、公暁に頭を下げる実朝。実朝の誠実さに心変わりするかと思いましたが、公暁の凍り付いた心は溶かせなかったようです。頼家の暗殺には直接関わっていない公暁と実朝なのに、鎌倉の闇が2人に襲い掛かるのが悲しいですね。

ポイント解説

源実朝が任じられた、右大臣とはどういった役職なの?

 源実朝が任じられた右大臣とは、どういった役職なのでしょうか。

 右大臣とは、行政の最高機関である太政官の職の一つで、太政大臣・左大臣に次ぐ位です。太政大臣が1番上の役職ですが、適任者がいない場合は空席でもよいという役職なので、左大臣が最高役職であり、右大臣がその補佐的な役目と言われています。
 現代で言うと、太政官は内閣、左大臣は内閣総理大臣、右大臣は副総理にあたると考えられます。

 この任官は実朝が親王(皇族の子)の後見となるには相応のふさわしい位を与えるべきだ、という理由だったようですが、武家としては想像を絶する大出世に、後鳥羽上皇は実朝を身分不相応な官職に就けて、呪いをかけたのではないかという俗説が生まれるほどでした。

 ちなみに、政子が授与された従三位(じゅさんみ)の位は、政策決定に参与し、土地の所有者となれる特権階級です。政子のように出家した女性が三位以上の位を与えられるのは、当時としてはかなり異例だったそうです。

第四十三回 「資格と死角」(2022年11月13日放送):更新日3月31日

(画像)第43話のイメージ

 政治に全く興味のなかった政子ですが、朝廷の実力者である藤原兼子と対等に渡り合えるほど、頼もしくなりましたね!以前、大姫の入内について相談するために後白河法皇の愛妾・丹後局と対面し、丹後局の迫力に気圧されていた頃に比べると、大きく成長しました。
 のえと源仲章の2人きりでのお花見。浮気にしては、堂々としすぎていませんか?のえは権力に弱い女性ですが、どうやらイケメンにも弱いご様子。
 今まで、義時が辛い時は妻の八重や比奈が支えてくれていましたが、のえと義時の心には距離があるようです。キノコをプレゼントした時は、のえにメロメロだったのに、いつのまに冷え切ってしまったのでしょうか…

ポイント解説

源仲章(みなもとの なかあきら)とは、何者なの?

 和田合戦の原因に絡んでいたり、のえに急接近したりなど、怪しい動きをする源仲章。彼は一体何者なのでしょうか。

 仲章の父・光遠は後白河法皇の近くで仕える臣下でした。仲章も後鳥羽上皇に仕えますが、早くから鎌倉幕府の在京御家人(京都にいながら、鎌倉幕府の御家人を兼務すること)となります。そして、源実朝が第3代鎌倉殿となると、教育係として鎌倉に下ります。
 当時、鎌倉は朝廷から東国自治の承認を得るという形を取っていたので、朝廷に仕えることと鎌倉の御家人になることは相反しなかったようです。
 なぜ仲章が鎌倉と縁ができたのかは分かっていませんが、仲章の父が伊豆守(伊豆国を管轄する地方官職)となったことがきっかけではないか、とする説があります。
 京都で人脈を持つ御家人は少なく、仲章は幕府と朝廷を繋ぐ重要な存在として出世を重ねていきます。

 また、仲章は歌人で、当時随一の歌人と称された藤原定家とも親交がありました。定家は日記「明月記」で仲章のことを“優れた文章を書くわけではないため才能の評判はないが、多方面の学問に精通している”と評価しているといいます。

 実朝からの信頼を得て鎌倉で出世する傍ら、しばしば京都へ行き後鳥羽上皇に鎌倉の様子を伝える仲章。このことから、仲章は朝廷と鎌倉の2重スパイだったのではないかとする説もあります。

第四十二回 「夢のゆくえ」(2022年11月6日放送):更新日3月31日

(画像)第42話のイメージ

 源実朝を前に、前世では師弟関係だったと話す陳和卿。現代の感覚から見ると、怪しい勧誘にしか見えません…。
 実朝が自立して鎌倉のために頑張ろうとするほど、北条義時との距離が広がっているようです。平和な世を作りたいという思いは実朝も義時も同じなのに、どうしてすれ違ってしまうのでしょうか。
 八田知家がこんなに感情的になるのを、初めて見た気がします。うきうきと船を作る知家は、まるで少年のようでしたね。あんなにマッチョな体で、年齢はおじいちゃんという事実にも驚きです。
 そして、立派な筋肉を披露しながらも、出航を特に手伝わない三浦義村。手伝わないのなら、どうして上裸なの?視聴者へのサービスショットなの?と笑ってしまいました。

ポイント解説

源実朝はなぜ宋に行こうとしたの?

 吾妻鏡によると、実朝が宗を目指すきっかけとなったのは、陳和卿(ちんなけい)という人物だとされています。
 陳和卿は南宋(中国)の職人で、平安時代の末期に日本へとやってきて、東大寺の大仏殿の復興に従事しました。東大寺の再建供養式典の際、源頼朝が陳和卿に面会を申し入れましたが、「頼朝は多くの人の血を流した人物」との理由で断られたというエピソードがあります。
 実朝と面会するため鎌倉にきた陳和卿は、実朝の顔を見るや泣き出し、実朝は前世では宗の有名な寺院の高徳な僧侶で、私はその弟子だった、と話します。
 誰にも言っていませんでしたが、以前、夢の中で同じことを僧侶に告げられていた実朝は、すっかり陳和卿を信じます。そして宗への強い関心を持った実朝は、渡宗のための造船を計画します。

 当時、夢の出来事は神仏からの予言であると信じられていたので、このお話が真実なのかもしれませんが、歴史学者の中では、実朝は鎌倉での御家人の勢力争いに疲れて宋に逃げ出したかったのではないか、宋との貿易を成功させて鎌倉殿としての権威を示したかったのでないかなど、様々な推察がされています。

 義時や大江の制止を振り切って実行された渡宋計画ですが、由比ヶ浜の海は岸から沖までの水深が浅く、大きな船は出航できなかったため、失敗に終わりました。

お問い合わせ

交流観光課 観光担当(市庁舎5階南側)


電話: 0545-55-2777
ファクス:0545-55-2937
メールアドレス:kouryuukankou@div.city.fuji.shizuoka.jp

ページの先頭へ戻る