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ある担当者のつぶやき 【7月放送分】第26回~第29回

2022年08月05日掲載

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されています。
 学生時代は日本史が苦手だった担当者が、大河ドラマの感想をつぶやいたり、物語をより深く楽しむためのポイントを頑張って解説したりします。

第二十九回 「ままならぬ玉」(2022年7月31日放送):更新日8月5日

(画像)第28話のイメージ

 義時はまだ、女性はみんな、きのこが好きだと思っていたのですね。八重にプレゼントして喜ばれなかったことから、まったく学んでいません。きっと八重も、草葉の陰で「ちょっと待って!」と驚いていたのではないでしょうか。
 息子の頼時は素直で真面目な性格のようですが、まだまだ政治に関しては頼りない印象です。飢饉の農民を助けるためとはいえ、証文を破るのはいかがなものか…女性への対応を含めて、今後の成長を見守りましょう。
 井戸に落ちた頼家の手を阿野全成が掴むシーンは、メッセージ性を感じましたね。このまま二人で手を取り合い、鎌倉を率いて行けたのなら良かったのですが…。最後に残された呪術用の人形から、不吉な予感がします。

ポイント解説

北条時政が任官した国司とは?

 北条時政が、武士として初めて国司に任命されました。
 国司とは、朝廷が任官する地方の役人のこと。奈良時代、地方を国、郡、郷に分け(現在の都道府県と市町村のようなもの)、土地を管理するものとして国司、郡司、郷司という役職が設置されました。
 国司は都の中流貴族が派遣され、徴税の責任者となります。地元の有力者たちには郡司、郷司の役職が与えられ、税の取り立てなどの実務を担っていました。
 郡司や郷司は荘園(私有地)と公領(朝廷の公の土地)からの年貢を国司に納める際、一定のマージンを取ることが認められていました。源頼朝が平家から奪った土地を武士たちに与えたのも、武士たちを郡司職に任命する、という形をとっていました。
 頼朝の時代、国司となるのは源氏一門しか許されていなかったそうです。北条時政の任官には、北条氏が御家人の中で強い力を持っていたことが伺えます。

第二十八回 「名刀の主」(2022年7月24日放送):更新日8月5日

(画像)第27話のイメージ

 梶原景時は、表情が乏しく、何を考えているのか分かりにくい人でしたが、誰よりも鎌倉のことを思っている人だと伝わりましたね。自分の感情よりも、自分で定めたルールに従い行動する、とても理性的な人物です。だからこそ、自分の行動が周りに理解されず、思わず感情的になったシーンは衝撃的でした。
 自分の利益や誇りを優先する武士たちの中で、冷静に、ときに冷酷な判断を下す景時の存在は重要でした。御家人たちの重しとなっていた景時がいなくなることで、御家人同士の争いがさらに加速しそうな予感です。今後は義時が鎌倉の闇の部分を引き受けていくのでしょうか。
 それにしても、三浦義村はただならぬ人物です。自分は隠居すると義時には言っておきながら、裏で動いている様子。一体なにを企んでいるのか、怪しいですね。

ポイント解説

13人の合議制とは?

 13人の合議制とは、頼家への訴訟の取次ぎをする者を、有力御家人である13人に限定すると定めたものです。
 武士たちの集まりである鎌倉にとって、御家人たちの利害を調定し、判決を出すことは最も重要な業務です。建久10年(1199)10月、源頼朝が急死し、鎌倉殿を引き継いだ頼家は意欲的に政務に臨みますが、同年4月、訴訟について頼家が直接処理することを停止し、有力御家人13人の合議によって裁決することとなりました。
 かつては、この制度は頼家を政治の実権から遠ざけるためだと考えられていましたが、現在では、経験豊富な13人の御家人が若き頼家をサポートするためと考えられています。

 13人の合議制と呼ばれていますが、実際に13人が一堂に会して合議した例は確認されていません。訴訟の内容ごとに、関係する役割に応じて複数人で合議し、頼家に取次ぎを行っていたようです。
 13人が選ばれた理由は定かではありませんが、文武の役割や地理的なバランスを考慮して決められたと考えられています。13人のうち、武士は9人で、伊豆の北条時政と義時、相模の三浦義澄・和田義盛・梶原野景時、武蔵の比企能員・足立遠元、常陸の八田知家、そして頼朝の側近だった安達盛長。京から来た文官は4人で、中原親能・二階堂行政・大江広元・三善康信。
 任命手続きがあったのかも不明で、誰かが死去して欠員が出ても補充されなかったようです。

 義時はこのとき37歳、最年少でメンバーに加わりました。北条氏から2人選ばれているのは、鎌倉における地位が高く、頼朝の信頼が厚かったのではないかと考えられています。

第二十七回 「鎌倉殿と十三人」(2022年7月17日放送):更新日8月5日

(画像)第26話のイメージ

 混乱を機に、自分の権力を強くしようと画策する者たち。一筋縄ではいかない坂東武者たちを抑え込むのは、若き頼家には難しそうです。
 訴訟を頼家に取次ぐ御家人の数がどんどん増えていく様は、まるで新喜劇のよう!ドラマタイトルをコミカルに回収していくストーリーは、さすが喜劇の天才・三谷幸喜さんの脚本です。
 頼家の政治力を心配する御家人たちの態度が、頼家の御家人に対する不信感へ繋がってしまいました。頼朝は御家人たちには心を開きませんでしたが、家族である義時と政子を信頼し、本心を打ちあけていました。頼家にも、心のよりどころとなる味方がいれば良いのですが、義時とは対立してしまいそうです。1人で涙する姿に、頼家の今後が心配でなりません。義時の子頼時が、頼家と御家人たちの橋渡しをしてくれることを期待します。

ポイント解説

蹴鞠(けまり/しゅうきく)とは?

 蹴鞠は,古代に中国から伝えられたといわれる球技です。勝敗はありません。
 鞠は鹿の革でできていて、直径が約20センチ、重さは100グラムほど。競技場は「鞠庭(まりにわ)」または「鞠場(まりば)」と呼ばれ、一辺が約13メートルの四隅にそれぞれ、桜、柳、楓、松の木を1本ずつ植え、6~8人で鞠を落とさないように蹴り合い回数を競います。平安時代には上流貴族の間で親しまれるようになり、宮中で鞠会が盛んに開催されていました。
 鎌倉時代の朝廷の最高権力者であった後鳥羽上皇は蹴鞠の名手であったと言われており、自らが参加した鞠会で2000回越えを達成したという記録が残っています。彼と親密な関係を続けるためには、蹴鞠は習得すべき大切な芸だったようです。

第二十六回 「変わらぬ人」(2022年7月3日放送):更新日7月15日

(画像)第25話のイメージ

 前回は源頼朝目線からの頼朝の最期でしたが、今回は周りの人から見た頼朝の最期、といえる回でしたね。
 まだ頼朝が生きているのに、葬式の準備をしたり後継者を協議したり…必要なこととは理解できますが、みんなもっと頼朝を心配してあげて!と思わずツッコミを入れてしまいました。
 頼朝の最期の姿は、政子の幻覚かと思いましたが、本当に目覚めたことに驚きました。前回の落馬の際は少し苦しそうな表情だったので、穏やかな表情で最期を迎えたことに安心しました。
 源頼家と全成のどちらが2代目鎌倉殿にふさわしいかで、比企能員と北条時政の対立が深まりましたね。その結果、いつも一致団結していた北条家が分裂してしまい、何とも悲しい展開です。
 頼朝のお茶目さと北条家の団らんがドラマの癒しポイントだっただけに、今後が不安になってしまいます。

ポイント解説

乳母(乳父)と烏帽子親とは?

 生母に代わって貴人や公家の子どもを生涯養育・後見する人を乳母(乳父)といいます。乳母の支援には経済的な面も含まれており、源頼朝が伊豆へ流罪になった際は、乳母である比企尼がずっと支援をしていたと言われています。
 また、政治的な面で支える役割もあり、乳母は要職につき主君に奉公しました。幼いころから身の回りの世話をしてくれた乳母に対する信頼は厚く、大きな発言権を持つことができました。

 烏帽子親とは、武家の男子が元服(成人になったことを示す儀式)する際、親に代わって烏帽子をかぶらせる人をいいます。このとき、幼名(子どもの時の名前)から元服名(烏帽子名)に改める場合が多く、烏帽子親から1字もらってつけることが一般的でした。烏帽子親と烏帽子子は、実の親子と同様の関係になるとされていました。
 
 源頼家の乳父は比企能員ですが、烏帽子親についてはわかっていません。「吾妻鏡」では、記事が欠落している3年間の直前、頼家が頼朝や大姫とともに上京した記録は幼名の「一万」で書かれており、欠落の後、鎌倉殿の継承の記載では「頼家」と書かれていることから、空白の3年間に元服したと考えられています。

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交流観光課 観光担当(市庁舎5階南側)


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