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ある担当者のつぶやき 【6月放送分】第22回~第25回

2022年06月17日掲載

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されています。
 学生時代は日本史が苦手だった担当者が、大河ドラマの感想をつぶやいたり、物語をより深く楽しむためのポイントを頑張って解説したりします。

第二十五回 「天が望んだ男」(2022年6月26日放送):更新日7月15日

(画像)第25話のイメージ

 死への恐怖、過去への後悔、そして死を受け入れ、恐怖からの解脱ーーと、源頼朝の最期を丁寧に描いた回でしたね。目的を果たすために多くの人から恨まれていた頼朝なので、ひどい死に様になるのでは、と心配していましたが、意外にも、とても静かなシーンでした。
 落馬の際は、多くの御家人たちはおらず、流人時代からずっとそばに仕えた安達盛長と2人きりだったのも印象的でした。天命を終え、鎌倉殿から頼朝という個人にもどってきた、そんなことを思わせるシーンでした。
 頼朝から、鎌倉の未来を託された北条義時と政子。みんなを統率するカリスマがあるわけでも、恐怖で押さえつける力があるわけでもない彼らは、鎌倉をどこに導くのでしょうか。第2章の幕開けです。

ポイント解説

源頼朝の死因はわからない?

 源頼朝の死について、鎌倉幕府の編さんした歴史書「吾妻鏡」には、詳細な記録がありません。建久6(1195)年12月22日、頼朝が友人の家に遊びに行ったという記事を最後に、建久9(1198)年までの巻がないのです。空白の3年間の後、建久10(1199)年に「頼家が跡を継ぎ鎌倉殿になった」という内容から再び記録が始まります。
 頼朝の死については、建暦2(1212)年2月28日相模川の橋の修復に関する記事に、「この橋の落成式典の帰りに頼朝が落馬して体調を崩し、亡くなった」ことが記されています。
 武士である頼朝が理由なく落馬する可能性は低く、脳梗塞や心臓発作などの病気により落馬したのではないか、とも考えられていますが、死因についての資料が少なく、現在もわかっていません。
 また、橋の説明の文章に頼朝の死の記述を入れるという不自然さから、「吾妻鏡」の空白の3年間の巻について、後から喪失したのではなく、もとから記述されていなかったのではないか、という説があります。この欠落は、何か記録に残せない、隠したい出来事があったのではないか、と様々な推察のもとになっています。

第二十四回 「変わらぬ人」(2022年6月19日放送):更新日6月24日

(画像)第24話のイメージ

 女性たちの強さと前進を感じる回でしたね。この時代の女性は政略結婚の道具にされているイメージでしたが、自分の人生を生きるためにそれぞれの場所で戦っていることが伝わってきました。
 特に、愛する人を失った2人、大姫と巴御前の対比が印象的でした。変わりゆくことを受け入れ、新しい幸せに出会った巴御前と、自分らしく生きるために、義高を思い続ける決断をした大姫。大姫は他人から見ると悲劇の女性ですが、最期まで自分の思いを貫いたことを、彼女自身は幸せに感じていたのかもしれません。
 比奈が当然のように北条義時の隣にいることに驚きました。昔から頼まれ事を断れなくて周りに振り回されていた義時は、比奈の積極性に負けそうです。このまま比奈の押し切りで結婚となるのでしょうか。

ポイント解説

大姫は名前ではない?

 大姫とは、平安以来に使用された「長女」を示す名で、個人の本名ではありません。この時代の女性の名前は記録されておらず、大姫の本名はわかっていません。
 古代の日本では、自分の本名と霊的な人格が強く結びついていて、本名を口にすると相手の人格を支配できると考えられていたそうです。そのため、自分の主君や親以外が本名を呼ぶことは失礼なこととされていました。
 個人を呼ぶ際は官職名を用いたり、居住していた邸宅の所在地名などに基づいて付けた通称で呼ぶことが多かったようです。ドラマの中で源頼朝が「佐殿」や「鎌倉殿」と呼ばれているのは、このためでしょう。
 特に女性は、本名を明かすのは親と結婚相手だけでした。北条政子も本名ではなく、朝廷が記録を残すために便宜的に付けたものであり、政子本人は自分がそのように記録されていることも知らなかったと考えられています。

第二十三回 「狩りと獲物」(2022年6月12日放送):更新日6月17日

(画像)第23話のイメージ

 巻狩りが行われたのは源頼朝が征夷大将軍に任じられた年の翌年のことですが、金剛と万寿は立派に成長をしていましたね。
 万寿の初めての鹿狩りが成功するよう奔走する大人たちに、笑ってしまいました。次期鎌倉殿を期待する周りからのプレッシャーが強く、万寿を心配しましたが、源頼朝が討たれたという誤報が入ったときも冷静に対処する姿に感心しました。将来、武家の棟梁となる自覚が既にあるようです。
 曽我兄弟の仇討ちは、兄弟の父を思う美談ではなく、クーデターを隠蔽するためだったという新しい描かれ方が面白かったですね!緊迫感漂うシーンに、結末を知っていてもハラハラしました。
 三度も命拾いした頼朝ですが、自分の天命もこれまでと、なんとなく死期を感じているようです。今回の大河ドラマの頼朝ファンとしては悲しい予感がしますが、頼朝の最期まで、一話一話、大切に視聴しようと思います。

ポイント解説

曽我物語の成立について

 曽我兄弟の仇討ちを題材とした軍記物語のことを、「曽我物語」といいます。
 曽我兄弟の事件後、遊行巫女によって事件のいきさつや兄弟の生涯が語られるようになりました。これを「曽我語り」といいます。「曽我語り」は、兄弟の霊が怨霊となって禍をもたらすことがないよう、兄弟の魂を祀り鎮めるために始まったと言われています。
 その後、「曽我語り」は東国の人々の信仰の中心である箱根権現・伊豆権現の僧侶たちにより「報恩」(恩に報いること)などの仏教の教えの題材として人々に広められていきます。
 やがて、様々な仏教説話や鎌倉武士たちに伝わる伝承などが織り込まれた語りが文字化され、「曽我物語」が成立しました。
 「曽我物語」は浄瑠璃や歌舞伎など様々な芸能の題材になり大衆化され、日本三大仇討ちのひとつと言われるようになります。

北条時政が頼朝暗殺計画の黒幕だった?

 曽我物語では兄弟の父を思う美談とされている仇討ち事件。ドラマでは、仇討ちはフェイクで、兄弟の目的は源頼朝の暗殺だったと描かれていました。実は、曽我兄弟の仇討ち事件には、政治的要因が潜んでいるという学説があります。

 鎌倉で編さんされた歴史書「吾妻鏡」にも、曽我兄弟の仇討ち事件は記されています。そこには、工藤祐経を討ち取った後、弟の曽我時致は頼朝の宿所に押し入るが、雑用係の五郎丸に捕らえられた。翌日の尋問で頼朝は時致の話に感動し、彼の命を助けようとするが、祐経の子の懇願によりやむなく斬首した、と書かれています。また、時致が頼朝を襲った理由は、祖父伊東祐親を殺したこと、工藤祐経を寵臣していたことに対する恨みとされています。

 しかし、仇討ちの際の死傷者の多さや、猜疑心の強い頼朝が自分を襲おうとした時致を助けようとするのは不可解であることを根拠として、政治的陰謀が隠されているのではないか、という説があるのです。
 仇討ちが成功したのは狩場設営の責任者である北条時政の手引きがあり、自分の待遇に不満を持つ時政が頼朝を襲うように兄弟をそそのかしたという説や、有力御家人たちの武力衝突をカモフラージュするためだったという説など、様々な仮説が立てられています。

 現在も謎の多い曽我兄弟の仇討ち。市内に数多くある兄弟ゆかりの史跡を巡りながら、真相を推理してみるのも楽しいかもしれませんね。

第二十二回 「義時の生きる道」(2022年6月5日放送):更新日6月9日

(画像)第24話のイメージ

 久しぶりにコミカルなシーンが多く、今週は誰も死ななかったぞ!とほっとしましたが…いや、そういえば後白河法皇が亡くなっておりました。源頼朝の征夷大将軍の任官を拒否し、武士たちに屈することなく、日本一の大天狗らしいあっぱれな最期だったのではないでしょうか。
 八重を失った北条義時は、生きる気力をなくしてしまうのではないかと不安でしたが、息子の金剛を立派に育てるために奮闘する姿に安心しました。政子が義時を励ますところでは、2人の強い絆を感じましたね。これからの困難も、2人で励ましあい乗り越えていくことを予感させるシーンでした。
 比企尼の孫の比奈は、八重とは似ていないように見えますが…今後、比奈が義時の心をほぐしてくれるのか、見所ですね。

ポイント解説

源頼朝が任官を受けた「征夷大将軍」とは?

 征夷大将軍とは、朝廷による役職の一つです。もとは蝦夷(日本列島の東国や北方に住んでいる人々)と呼ばれる、朝廷に従わない人々を征服するために派遣される軍の最高司令官のことを言いました。
 かつて木曽義仲も朝廷を脅し、征東大将軍の任官を受けました。(「東」は関東の源頼朝のことを指します。)

 頼朝も奥州藤原氏という「蝦夷」を討伐しているため、征夷大将軍を任官するのは自然なことのように思えますが、頼朝が征夷大将軍を任官した理由には諸説あるようです。
 ひとつは、頼朝が「大将軍」という役職を望んでいたという説。武家社会において、伝説化された祖先は「将軍」と呼ばれており、これまでに存在した「将軍」を超える武士の棟梁として「大将軍」の役職がふさわしいと考えた、という説です。
 もうひとつは、朝廷から与えられた「右近衛大将」という役職では、独自の権限を持たず、朝廷を守るために京に在中しなくてはなりませんが、征夷大将軍は天皇から全権を委任されている上、鎌倉を離れなくても良いという理由から、頼朝が希望したという説です。
 他にも、朝廷が頼朝の職を考えた際、平清盛や木曽義仲が任官した役職は不吉であるから避けた結果、残ったのが征夷大将軍であった、という説もあります。

 源頼朝が征夷大将軍の任官を受けた明確な理由は不明ですが、頼朝以降、武家政権の長=征夷大将軍と認識されるようになります。

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