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ある担当者のつぶやき 【5月放送分】第17回~第21回

2022年06月03日掲載

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されています。
 学生時代は日本史が苦手だった担当者が、大河ドラマの感想をつぶやいたり、物語をより深く楽しむためのポイントを頑張って解説したりします。

第二十一回 「仏の眼差し」(2022年5月29日放送):更新日6月3日

(画像)第21話のイメージ

 奥州藤原氏も倒し、脅威となるものはいなくなった源頼朝。ただ、藤原側から鎌倉側へ寝返ろうとした武士を切り捨てるなど、頼朝の人を信用しない性格は変わらないようです。この慎重さがあったから、武家政権を成立させることができたのでしょうね。
 八重と三浦義村の川のシーンでは、(三浦、後ろ、後ろ~!)と念じていましたが、テレビの向こうには届きませんでした…あまりにも辛い展開に、ドラマの最後には私も仁田忠常と同じ表情になって視聴しておりました。
 頼朝の命令により、非情な仕事も引き受けていた北条義時。彼にとって、八重という守るべき存在がどんなに心の支えになっていたことでしょう。八重を失った義時が、どうなってしまうのか心配です。

ポイント解説

運慶の所属する仏師の流派である“慶派”について

 北条時政の依頼で、仏像を制作した運慶。運慶とは、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した仏師(仏像を専門につくる彫刻家)で、奈良東大寺南大門の金剛力士像の作者として有名です。
 平安時代後期、平氏などの権力者からの依頼により仏像を制作していた仏師の流派、院派と円派が京都で活躍しており、運慶の属する慶派は奈良を拠点としていました。院派と円派の特徴である優雅で穏やかな作風とは違い、慶派の写実的で力強い作風は東国武士たちに気に入られ、武家政権の成立とともに慶派も繁栄していきます。
 運慶の父、康慶は慶派を発展させた仏師の一人で、運慶の師匠でもあります。そんな康慶の作品といわれているのが、富士市松岡の瑞林寺にある木造地蔵菩薩です。国指定重要文化財にもなった貴重な仏像が富士市にあるなんて、驚きですよね!
 この地蔵菩薩は平家の念持仏(身近なところに安置して、日々礼拝する小さな仏様)で、富士川の合戦で敗走する際、瑞林寺の前身である清泰寺に預けられたという伝承があります。

第二十回 「帰ってきた義経」(2022年5月22日放送):更新日5月27日

(画像)第20話のイメージ

 北条義時と善児、初タッグでのおつかいです。善児が現れるところ、必ず死の影があるという死神のような人物ですが、味方にすると頼もしい存在ですね。これから政治の世界で猛者たちを統制していく義時とは、良いコンビになりそうです。
 藤原秀衡の幻が、源義経に伝えようとしていたことは何だったのでしょうか。義経がどこかすっきりしたような表情をしていたので、言葉はありませんでしたが、思いやエネルギーのようなものが届き、自分の運命を受け入れる覚悟ができたように感じました。
 義時に対して、無邪気な笑顔で“鎌倉を倒す策”を話す義経。義経が鎌倉に帰ってきていたら、あの笑顔で“どうやって平家を倒したか”を頼朝に話していたのでしょうか。2人の再会が悲しい形になったことが残念でなりません。

ポイント解説

静御前が頼朝の前で舞った白拍子について

 静御前が源頼朝の前で舞ったものは「白拍子(しらびょうし)」という歌舞で、今様や朗詠を歌いながら舞うことを指します。巫女が神に捧げる舞が起源と言われており、雨乞いの儀式で静御前が舞ったところ、たちまち黒雲が現れて雨が降ったという伝説があります。

 逃亡中の義経と吉野山で別れた静御前は、捕縛されて鎌倉へ連行されます。頼朝の前で白拍子の舞を命じられた静御前は、義経を慕う内容を歌います。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を消したあの人が恋しい)

「しづやしづ しづのおだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」
(「静よ、静。」と、おだまきから糸が繰り出されるように繰り返し私の名を呼んでくださった、あの昔を今に戻す方法があったら良いのに)
※『しづ』は織物、『おだまき』は糸を巻き取った糸玉のこと。『しづのおだまき』は「繰り返し」の前置きとして用いられる。

 これを聞いた頼朝は怒りますが、北条政子は静御前の気持ちを理解し、頼朝を宥めたといわれています。

第十九回 「果たされぬ凱旋」(2022年5月15日放送):更新日5月20日

(画像)第19話のイメージ

 源頼朝と義経、お互いに仲直りしたいのにすれ違う様子は、見ていてやきもきしてしまいました。義経は、頼朝に認められたい、褒めてほしいと願っているだけなのに、どうして上手くいかないのでしょう。「私の何がいけなかった」のセリフに、とても切ない気持ちになります。
 義経が負けそうになれば頼朝に乗り換えるという、後白河法皇のしたたかさが存分に発揮されていましたね。後白河法皇が義経追討の宣旨を出すときの態度には、憎らしくて腹が立ってしまいました。後白河法皇と源行家が邪魔をしなければ、義経は鎌倉に帰れたのに!と、2人を恨んでしまいそうです。
 義経を見逃す、北条時政の計らいにホッとしました。頼朝が時政を信頼し、重宝する理由が分かった気がします。

ポイント解説

後白河法皇は、天皇になる予定ではなかった?

 動乱の時代を巧みな政略により切り抜け、源頼朝から「日本一の大天狗」と評された後白河法皇。もともとは、天皇になる予定ではなかったと言われています。
 後白河法皇は、鳥羽上皇の第4皇子として生まれました。皇位継承争いとは無縁の立場であった後白河法皇は、「今様」という平安時代に流行した歌謡に夢中になり、夜通し謡って喉をからしたこともあったそうです。その様子から、父鳥羽上皇や兄崇徳天皇からは「即位の器量ではない」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と評価されていました。
 そんな後白河法皇が即位したのは、異母弟の近衛天皇が若くして亡くなったため、次の皇位継承候補である幼い二条天皇が成長するまでの中継ぎとして即位するという、異例のものでした。
 天皇の在位期間は三年という短いものでしたが、その後、三十数年もの長きにわたり院政を行います。

第十八回 「壇ノ浦で舞った男」(2022年5月8日放送):更新日5月13日

(画像)第18話のイメージ

 ついに、源平合戦が終わりました。源氏の勝利を聞いた源頼朝は、部下たちの前では冷静な態度を保っていましたが、政子の前では思わず涙。本心がなかなか見えず、ドラマ視聴者からサイコパスといわれていた頼朝の気持ちがあふれ出た瞬間でした。皆の前では、源氏の棟梁としての顔を意識的に見せていたことが伺えます。
 海辺にたたずむ北条義時と源義経のシーンが印象的でしたね。お互いの正義が違い、分かり合えない2人と思っていましたが、心根が優しいところは似ているのかもしれません。きっと義時は、これまでの、そしてこれからも出てくるであろう多くの犠牲を背負っていくのかと思うと、義時に幸あれと願わずにはいれません。
 源頼朝と義経の兄弟が、完全に決裂してしまいました。戦の前に結んだ「戦が終わったら兄弟で語り合おう」という約束を、果たすことができるのでしょうか。

ポイント解説

なぜ源頼朝と義経は決裂してしまったの?

 平氏滅亡に大きな功績を残した源義経が、頼朝と決裂してしまったのはなぜでしょうか。

 きっかけとなったのは、義経の無断任官といわれています。源平合戦の一つ、一ノ谷の戦いで戦功を治めた義経は、後白河法皇の計らいで検非違使(京での犯罪を取り締まる警察的な役職)に任じられますが、その任官が鎌倉を通さず行われたため、頼朝からとがめられます。鎌倉政権は、御恩と奉公という体制で成り立っています。武士たちは頼朝に武力を提供する代わりに、頼朝から土地や役職を与えられます。頼朝の推挙なく任官することは、頼朝の支配権を侵害する行為でした。

 さらに、平家討滅後、京へ凱旋した義経軍の武士たちは、後白河法皇と朝廷に褒美として役職を与えられます。それを知った頼朝は、無断任官を受けた武士たちに怒り、自分がとがめられたにも関わらず無断任官を看過した義経に不信感を強めます。

 そして、腰越状(義経から頼朝に送った謝罪文)により、兄弟は完全に決裂してしまいました。腰越状には、任官は源氏の名誉のために受けたこと、自分は悪いことをしていないという弁明、肉親の情に訴えるような内容が書かれており、無断任官を反省している点が書かれていませんでした。無断任官が鎌倉政権の根幹にかかわる問題ということを、義経は理解していませんでした。

 頼朝は、軍事的才能を持ちながら、政治にまったく無頓着な義経を、危険人物とみなすようになったと考えられています。

第十七回 「助命と宿命」(2022年5月1日放送):更新日5月6日

(画像)第17話のイメージ

 久しぶりに工藤祐経の登場です。かつての浮浪者のような見た目から、だいぶ身綺麗になりましたね。祐経を恨んでいた兄弟は、もしかして、富士市にもゆかり深いあの兄弟でしょうか…?今後、兄弟のエピソードが描かれることを期待してしまいます。
 木曽義高はまだ十代の少年だったそうですが、自分の境遇に嘆くことをせず、最後まで凛とした姿が立派でした。武士としての生き方を、父義仲から学んでいたのでしょうね。もう登場しないことが寂しくなるほど、魅力的な親子でした。
 北条義時から政子への言葉に切ない気持ちになりました。伊豆での平穏な暮らしを望んでいたけれど、もう戻れないのだという覚悟を感じましたね。否応なく権力争いに巻き込まれていく義時と政子。これが二人の宿命ということなのでしょうか。

ポイント解説

木曽義高の最期について

 木曽義高はドラマでは信州の方へ逃げたとされていましたが、実際に討たれた場所は埼玉県の入間河原と言われています。義高はなぜ、埼玉県に向かっていたのでしょうか。
 埼玉県は、義高の父義仲が生まれた土地です。義高の祖父、源義賢は埼玉県嵐山町の大蔵に館を構えていました。義賢の子義仲が2歳のとき、「大蔵の戦い」がおこりました。義賢の甥(義賢の兄義朝の子)義平が、勢力争いから大蔵館を襲撃したのです。義賢やその一族のほとんどが討ち死にし、義仲も殺されるところでしたが、義平の家来であった畠山重能(畠山重忠の父)とその部下の斎藤実盛のはからいにより木曽の地へ逃れました。
 鎌倉を脱走した義高は、祖父ゆかりの大蔵もしくは父を救った畠山重能ゆかりの菅谷へ向かっていたと考えられています。

お問い合わせ

交流観光課 観光担当(市庁舎5階南側)


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