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曽我兄弟の仇討ち

2022年01月05日掲載

 日本三大仇討ちのひとつ、曽我兄弟の仇討ち。曽我十郎祐成と五郎時致兄弟が、父の伊東祐泰を暗殺した工藤祐経を殺害するという事件です。
 この事件は、鎌倉幕府将軍の源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催した際に起こりました。

曽我兄弟の仇討ち

 曽我兄弟の仇討ち事件の背景には、一族の領土をめぐる人間関係がありました。
 
 事の起こりは、曽我兄弟の先祖の伊東祐隆の行動にあります。伊東、宇佐美、大見に領地をもつ大きな豪族であった祐隆は、嫡男の祐家が早くに亡くなり、後妻の連れ子(実は祐隆の隠し子)に主要な領地を譲り、祐継と名乗らせ家督を継がせました。一方、嫡男の子(祐隆の孫)である祐親には、新たに開発した河津のみを与えました。伊東氏の家督を継いだ祐継は43歳で病にかかり、9歳の嫡男の金石(のちの工藤祐経)を祐親に託して亡くなりました。
 祐親は金石が13歳になると元服させ「祐経」と名乗らせ、自身の娘と結婚させました。その翌年、祐経を平重盛(平清盛の長男)に仕えさせ、都暮らしをさせます。その間に、嫡男の祐泰に河津を譲り、自身は伊東に移り住み、領地を独占しました。
 このことに恨みを持った祐経は、祐親の暗殺を計画します。
 しかし、肝心の祐親は暗殺できず、その子、祐泰を暗殺してしまいます。祐泰には、当時5歳と3歳の息子(のちの曽我十郎祐成と五郎時致)がいました。
 そして、成長した曽我兄弟は建久4年(1193)、源頼朝が富士の裾野で大がかりな巻狩りをおこなっていた際、工藤祐経を殺害し、仇討ちを果たしました。
 源頼朝の寵臣を殺害した曽我兄弟は、兄の祐成はその場で討ち取られ、弟の時致は捕らえられ、処刑されました。

曽我兄弟と北条義時は従兄弟

 曽我兄弟の祖父である伊東祐親は、北条義時の母方の祖父でもあります。曽我兄弟と義時は従兄弟なのです。
 また、伊東祐親の娘である八重姫は、流人時代の源頼朝と通じ、男児をもうけていますが、平家の怒りを恐れた祐親に男児を殺されてしまいます。

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