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富士南地区の歴史

富士南地区の歴史、特色のご紹介です。

富士南地区の歴史

(写真)開拓記念碑

 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

ディアナ号の錨

(写真)三四軒屋区公会堂南側敷地のディアナ号の錨とプチャーチン提督像

 嘉永7年(1854)10月、プチャーチン提督率いるロシア軍艦ディアナ号は、下田港に来航し、そこで、安政東海地震に遭遇し大破しました。修理のため西伊豆の戸田港へ向かいましたが、折から悪天候のため漂流し、嘉永7年(1854)11月、田子浦沖合に漂着し、その後、駿河湾内で沈没しました。
 漂着した際、地元住民がディアナ号の乗組員を救助した話は、現在も語り継がれています。
 昭和51年8月、三四軒屋沖合から引き揚げられた錨は、平成元年12月21日に富士市指定有形文化財に指定し、現在、三四軒屋区公会堂南側敷地に置かれています。

富士南地区の特色

(写真)富士南地区ハウス栽培

 現在の富士南地区は、化学工場・金属工業団地としても栄え、物流倉庫が多く、二次産業、三次産業に強い地区であります。その一方で、富士川支流の豊富な水に恵まれ、地質がよいことから、稲作も盛んで、富士梨やいちご、イチジクも特産として知られています。

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お問い合わせ

富士南まちづくりセンター(森下52番地の1)

電話:0545-64-3632
ファクス:0545-62-0829
メールアドレス:c-fujiminami@div.city.fuji.shizuoka.jp

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