富士市
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曽我兄弟の仇討ち
 曽我兄弟の仇討ちにまつわる伝説を紹介しています。
曽我物語
 曽我物語は、建久4年(1193年)に源頼朝が富士の裾野で行った大規模な巻狩り(富士の巻狩り)の際、現在の富士宮市上井出の地で、兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が父の仇である工藤祐経を討ち果たした伝説を基にしています。
 事件の発端は、伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる、工藤祐経と曽我兄弟の祖父・伊東祐親の所領争いに始まります。この争いの中で、伊東祐親の嫡子、つまり曽我兄弟の父・伊東祐泰が工藤祐経によって殺されてしまいます。当時幼かった曽我兄弟は静かに闘志を燃やしながら成長し、兄十郎が22歳、弟五郎が20歳の時、仇討ちを遂げました。
 工藤祐経を討ち取った後、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました。この鷹ヶ岡が、現在の富士市鷹岡の地であるといわれ、兄弟にまつわる史跡がこの地に数多く残されています。
曽我八幡宮
(写真)  主神に応神天皇、相殿に曽我兄弟が祀られています。この神社は、同神社所蔵「曽我八幡宮略縁起(木版)」によると、仇討ちから4年後の建久8年(1197年)、曽我兄弟の意思に感心した源頼朝が家臣の岡部権守泰綱に命じて建てたものといわれています。
曽我八幡宮の位置情報
曽我寺
(写真)  正式には鷹岳山福泉寺といいますが、今日では曽我寺の名で親しまれています。境内には曽我兄弟の墓があり、江戸時代から東海道を往来する人々が寄り道をして参詣したといわれています。
 かつては凡夫川右岸にあったものが洪水で流されて現在の場所に移ったと伝えられていますが、その時期は明らかではありません。
 近年まで、兄弟が仇討ちを果たした5月28日に合わせて、曽我兄弟の供養祭が毎年盛大に行なわれていました。
曽我寺の位置情報
五郎の首洗い井戸
(写真)  現在は井戸が無く碑が建てられているだけですが、かつては水が湧き出て小さな池になっていました。
 仇討ち事件の後、弟の曽我五郎を鎌倉へ護送する途中、工藤祐経の子・犬房丸がこの地で五郎を討ち取りました。そして五郎の首をこの湧水で洗ったことから、「五郎の首洗い井戸」と呼ばれるようになりました。
 池の水は「念力水」と呼ばれ、毎年5月28日にはその水が血に染まったように赤くなるといわれていました。
五郎の首洗い井戸の位置情報
玉渡神社
(写真)  兄十郎祐成の愛人・虎御前の霊が祀られています。
 虎御前は仇討ち事件から3ヶ月程経つと兄弟の霊を慰める旅に出てこの地を訪れました。疲れて道端の小さな祠の前で休んでいると、二つの火の玉が現れたので、彼女はそれを兄弟の魂に違いないと思い、祠に籠もって七日七晩念仏を唱えて兄弟の冥福を祈りました。こうした虎御前の健気な姿に感じた村の人々が、後にこの地へ玉渡神社を建てて虎御前を祀ったといわれています。
玉渡神社の位置情報
虎御前の腰掛石
(写真)  曽我兄弟が仇討ちを遂げるために曽我の里を発ったあと、虎御前は兄弟の安否を心配して、後を追うように旅立ちました。そして虎御前がこの地に差し掛かったとき、仇討ちが果たされ兄弟が絶命したことを知り、その場で泣き崩れて傍らにあった石に腰を下ろしたといいます。そのときの石が虎御前の腰掛石として伝えられています。
 この石に柄杓で水をかけると婦人病にかからないとされ、お参りする人も多いといいます。
 また、虎御前が兄弟の死を知ったとき橋の上にいたので、この橋を「がっかり橋」と呼ぶようになったといわれています。
虎御前の腰掛石の位置情報
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