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富士山信仰と富士市に伝わるかぐや姫の伝説について紹介しています。
富士山信仰のおこりは、富士山の持つ神秘的な威容と大きな関わりがあります。奈良・平安時代にかけて富士山の火山活動が活発化すると、これをおさめようと荒ぶる火の神アサマの神を鎮座し祭祀者をおく祀堂を建てるようになっていきました。これが古代、富士山周辺に浅間神社が祀られるようになった契機です。そして、中世にはさらに神仏習合思想の影響を受けながら、富士山自体が修験道による山岳修行の聖地となっていきました。
富士市に伝わるかぐや姫の物語では、かぐや姫は最後に月に帰ってしまうのではなく、富士山に登って忽然と消えてしまうことになっており、姫は富士山そのものの祭神とされています。この物語のもとになっている話は、中世の富士山縁起(富士山及び富士山信仰にかかわった寺社に関する由来や伝説などを記した縁起書の総称)です。かぐや姫を育てた竹取の翁と嫗夫妻は、それぞれ鷹と犬をかわいがり、「愛鷹」と「犬飼」と呼ばれる祭神となったとされています。
囲いの道は、かぐや姫が富士山に登ったとき通ったとされる道で、現在の富士市立吉原第三中学校正門付近から、富士山頂まで続く小道があったと伝えられています。
見返し坂は、竹採塚の北方付近の高台で、かぐや姫が別れを惜しみ、何度も振り返ったところと伝えられています。
かがみ石は、原田のかがみ石公園にあり、小栗判官満重の妻である照手姫が水鏡にした石と伝えられています。また、このかがみ石で、かぐや姫が顔をうつしたともいわれています。
竹採塚の様子
塚に刻まれる「竹採姫」の文字
白隠禅師(1685?1768)が開山したという比奈の無量寿禅寺跡(現・竹採公園)には、竹採塚と呼ばれる塚があり、富士山麓の溶岩がいくつか積み重なって「竹採姫」と刻まれた卵形の石を支えています。白隠が記した『無量寿禅寺草創記』には、ここはかぐや姫誕育の地と記されています。竹取伝説の背後には富士山信仰が潜むと考えられていますが、この塚には「竹採姫」のほかには何も刻まれておらず、いつ頃誰によって立てられたものであるかは明らかにすることができません。
竹採公園内の竹採塚の南側には、白隠禅師の墓があります。
白隠禅師は東海道原宿(現沼津市原)に生まれ、15歳で出家し、全国各地で修行行脚を重ね、のちに臨済宗中興の祖とまでいわれた名僧です。当時より「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と謳われました。
白隠禅師の墓は、出家し、また活動の拠点とした沼津市原の松陰寺や、晩年に開山した三島の龍澤寺にもあります。
竹採公園の位置情報
滝川神社
滝川神社は現在でも「滝川の浅間さん」と呼ばれていますが、江戸時代以前には「原田浅間社」や「新宮」、または「父宮」などと呼ばれていました。これは、かぐや姫の養父の竹取翁を祀っていたことからきている呼び名とみられます。
滝川神社の位置情報
今宮浅間神社
江戸時代以前には「母宮」と呼ばれており、かぐや姫の養母の竹取嫗を祀っていたことからきている呼び名とみられます。
今宮浅間神社の位置情報
寒竹浅間神社
寒竹浅間神社は、かぐや姫を育てた老夫婦の屋敷があった場所と伝えられています。寒竹とは、竹の一品種で高さ2?3mになり秋から冬にかけて竹の子が出て生長します。
この地に同社が鎮座する理由も、周辺が竹林に覆われた物語の舞台に相応しい様相だったことが影響すると考えられます。
寒竹浅間神社の位置情報
飯森浅間神社
かぐや姫の世話をした下婢が祀られていると伝えられています。
また、昔は「飯守明神」と呼ばれており、これは源氏軍が合戦のための食糧をここに置いて、それを兵が守っていたからだといわれています。
飯森浅間神社の位置情報
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